[ボヘミアン・ラプソディ」をみました2018/12/19 22:06

噂の映画「ボヘミアン・ラプソディ」を、ついに見てきました。
映画館で予告ポスターを目にした瞬間、「絶対に観る!」と叫んでしまった映画です。前日にYoutubeでライブエイドの動画を観て素晴らしい声と長い脚にうっとりため息をつき、準備万端。CDの「Made in Heaven」を聴きながら涙したこともある私としては、泣く気満々でハンカチもティッシュも多めに用意して出かけました。

 

でも、映画の本編では特に泣くような気分にはなりませんでした(泣けばいいというものでもありませんが)。ぐっときたのが、最後に置かれていた実写です。ずしーんと重く響いて、単に「泣く」などというレベルの話ではなく、心の深いところに剛速球が投げ込まれたような。

 

帰ってきてから、飢餓感のようなものに突き動かされて、実写などでフレディの人生を振り返った動画やクイーンの記録映像をいくつも観ました。短い結婚のあと生涯の友となった女性(彼女との関わりについては、映画での描かれ方にかなりの違和感があります)も、彼の最期の時に寄り添った晩年の恋人も、本当に深い関わりを持った人だからこその面もちでコメントを述べていて、こんなに素敵な人々とこんなに深く心を通わせることができた彼は、短い命だったし孤独な時もあっただろうけれど、やはり幸せな最期だったのではないかな、と感じました。
もしかしたら彼は、聴衆の熱狂の中で足早に舞台を去るコンサートと同じやり方で、若い盛りに人生の幕を引くことを、初めから計画して生まれてきたのではないか…と思ってしまったほどです(遠くから見ている人間の、勝手なもの言いではありますが)。

 

私はクイーンにはあまり詳しくなくて、フレディ以外のメンバーについてはほとんどわかりません。実物そっくりだと聞いていたので、映画を観終わった時、やっぱり皆かっこいい人たちだったんだな、と思いました。メイキング動画によると、役者さんたちは本当に楽器を弾けるように練習を積んだそうで、たしかに迫力がありました。
 フレディを演じていた俳優さんも、できることはすべてやり遂げ、素晴らしい出来だったのだと思います。動き方やしゃべり方の癖を研究し尽くし、なりきって演じていたということで、確かに身のこなしも軽やかでバネがあり、ライブエイドの映像と比べても、どこでどう動いたかが見事に一緒でした。それはすごいことだと思います。メイキング動画で素顔で話している姿には、とても好感が持てました。

でも…
 映画の冒頭、あえて顔を映さずにシルエットや舞台へ向かう後ろ姿が映るのですが、見るなり心が「違う!こんなんじゃない!」と叫びます。「後ろ頭の形が違う!あのオーラがない!」などと、自分でも理不尽だと思いながら、つい思ってしまうのです。

結局全編にわたって、歯が出ていた(?)というフレディに似せるための不自然な付け歯への違和感とともに、どうしても、演じられたフレディが妙に子どもっぽく感じられて、素直に物語に入り込んで感情移入をすることができませんでした。

それはひょっとしたら役者さんのせいばかりではなく、脚本全体の、人間描写のせいもあったかもしれません。あとから思ったことですが、心理描写がありふれた感じで、随所に違和感がありました。フレディがソロ活動をしていた時期にからむ顛末の描かれ方もそうで、まだ生きている関係者たちへの遠慮があるためかと思ったら、映画の制作にメンバー自身が深く関わっていることを知って、ちょっと考え込んでしまいました。フレディの孤独の深さが、そんなところからも推し量れるような気がしたのです。彼らにとって、フレディという存在はまだ生々しく生きていて、客観視して映画にすることなどできるはずもなかった、ということなのかもしれません。それとも、そもそも一緒にいなかった場面は想像で描くしかなかった、そのためなのでしょうか。もしかすると、彼らにしてみれば「ずっと自分たちと一緒にいれば病気になどならずに済んだかもしれないのに」という思いもあったのかもしれない…と、勝手な想像まで膨らんでいます。

 あとから観た実写のインタビューで、最後のレコーディングについて述べていたメンバーの話には感動しました。

最期までミュージシャンとして生きようとした彼の姿と、ぎりぎりまでそのような濃密な日々を過ごすことができたこと、それを支えた仲間たちとの関わりが素晴らしく、

救われるような思いがしました。

 

文句ばかり並べ立てたような文章になってしまいましたが、本当は、観に行って良かったと思っています。あとから実写の映像を観ていろいろ考えるところもありましたし、実際のところ、映画館の、大画面と特別な音響効果のもとでクイーンと出会えたことは、ひょっとしたらその後の自分のあり方を変えてしまったかもしれないくらいの、大きな体験だったのです。




 ジャケットになったこの写真にはフレディの部分だけが切り取られていますが、
 元の写真には、左側に他のメンバーが映っていたようです。

映画『この世界の片隅に』のDVDを観て2018/08/14 18:05

今朝はちょっと、くたびれていたのです。

暑い日が続いたせいもあるでしょう。

このところ仕事も忙しかったし、いろいろと手を広げてしまって、

「やりたいこと」だったものが、いつの間にか

「やらなければならないこと」になってしまっていました。

それでも、ちょこちょこと気晴らしをしながら

そこそこいい感じでやっているつもりだったのですが、

とうとう、身体は特にどうということもないのに、

どうしても必要なことだけをすませると、

もう何もする気がしないのでした。

(お盆なのも関係していたのかもしれません)

 

「ああ、こんなときは映画を観ればいいのだ」と思いつき、夫に言うと、「じゃあこれを観よう」と、

ずいぶん前から「観ようね」と言いながらそのままになっていた

『この世界の片隅に』のDVDを出してきてくれました。

 

いまはもう、観終わって少したったのですが、

それでもまだ、さまざまな思いがあふれて、とても言葉になりません。

思いつく言葉をとりあえず並べてみたら、どれも浅く空々しい感じがして。

いま、こうして生きているということの有難さが

身に沁みました。

普通でいる、ということの大切さをかみしめて、

これから生きていくために、大きな力をもらった感じがしています。

 





『人生 フルーツ』を観て2018/07/25 21:13

先月観たもう一本の映画は、『人生 フルーツ』です。

初めて知ったのは、劇場での一般上映が終わった頃。

まず、なにやら魅力的な老夫婦の写真に惹かれ、それから説明を読んで、絶対に観たい!と思いました。

以下は、公式HPの解説文の引用です。

 

「かつて日本住宅公団のエースだった修一さんは、阿佐ヶ谷住宅や多摩平団地などの都市計画に携わってきました。1960年代、風の通り道となる雑木林を残し、自然との共生を目指したニュータウンを計画。けれど、経済優先の時代はそれを許さず、完成したのは理想とはほど遠い無機質な大規模団地。修一さんは、それまでの仕事から距離を置き、自ら手がけたニュータウンに土地を買い、家を建て、雑木林を育てはじめました――」

 

 

 実は私は、そのような「無機質な大規模団地」で幼い頃を過ごしていて、その感じが結構好きだったりもします。もっと現代風のマンションにも住んだ経験から、昔の公団は、建物こそ無機質ではあるものの、建物同士の間がゆったりと配置され、南側にかなり大きく庭のスペースが取ってあるなど、余裕を持った敷地の取り方には人間的な温かみを感じるのです。

こどもの想像力は、どんな所も冒険の場に作りかえます。住んでいたのは1階でしたので(とはいえかなりの高さがあり、親がよく許してくれたと思いますが)、ベランダの手すりは、馬の背中になったり山の崖になったり、嵐の海の、船のマストになったりしましたし、各号棟の庭にはそれぞれ個性があり、森にするにはちょっと木が足りない感じでしたが、基地ごっこはかろうじてできました。

でも、もしあそこが、山を崩して更地にし、そこにずらっと同じ向きで建物を並べるのではなく、元の山の形を感じさせるように建物が配置され、雑木林を風が通り抜けるような団地だったら……空想の世界はどんなにふくらみ、身近な自然とのふれあいは、私の中にどんな世界を育んだでしょうか。

 

 

何よりも驚き、感動したのは、あの頃、経済成長の時代の最中にあって、まさにその最先端にいながら、経済優先の考え方に異を唱えた人がいたことです。

そして、自分たち夫婦にできることを、ひっそりと地道に、50年以上も続けてこられたことにも。

それは、当時は「単なるへそ曲がり」とみなされる行為だったかもしれません。そしていま、時代はぐるっとめぐり、その「へそ曲がり」な行為に新たな光が当たっています。

更地だったお二人の家の敷地にはいま、小さな雑木林が育って、いろんな種類の果実も実れば、落ち葉で敷地内の畑の土を肥やしてもいます。それを見れば素晴らしさは誰にもわかりますが、樹々がまだ小さかったその途上は、さぞかし大変だったことでしょう。生命の営為には、時間がかかるのです。

 

視線を高く上げ、自分たちの目指す理想を指し示す夫と、

夫を足許から全力で支えることでその理想を現実にし、日々の暮らしの形にしていく妻。

お互いがお互いの尊厳を認め合い、支え合いながら生きてきたご夫婦の、その年月の豊かさ。

胸を打つのは、あらゆる行為の始めに愛があること。

誰かを責めるのではなく、ただこつこつと一つずつ、自分の手を使ってできることをしていくことの大切さ、そして積み重ねていく小さな行為の大きさです。

 

『みんなの学校』と同じように、この映画も、関西のテレビで放映されたドキュメンタリーを劇場用にしたものです。ひょっとして同じ方々が作っているのかと思ったら、こちらは東海テレビ、『みんなの学校』は関西テレビでした。

 

慌しい日々の中、バタバタと出かけていったのですが、

繰り返される「ゆっくり、こつこつ…」というナレーションを聞くうちにどんどん心が静まり、

そういう風に生きたいという思いが、また強くなって帰ってきました。

そして、「一本筋の通ったへそ曲がり」でいたいという、

昔から持っている思いも。



「みんなの学校」を観て2018/07/23 21:48

先月は、素敵なドキュメンタリー映画を2本観ました。

どちらも、前から観たいと思っていたもので、

しかも、自主上映で申し込みからかなりの日数があり、

待ちに待った!という気分での鑑賞です。

 

一本目の「みんなの学校」は、大阪の「大空小学校」という公立の学校を一年間取材した作品で、テレビのドキュメンタリー番組で放映されたものの映画版です。

公立の学校でここまでできるのか! 

という、衝撃の内容でした。

映画について書かれた本もあり、あらかじめ読んでいたのですが、やはり実際にみると感覚が違いました。

しかもこの日は、映画を観たあと、この大空小学校の初代校長をしていらした木村泰子さんのお話も聴ける、スペシャル企画でした。

映画のHPはこちらです

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次々と登場する、

どこかで会ったことのあるようなこどもたち。

そのこどもたちと関わるおとなたちが、

正解のない中で手探りをし続けている姿に打たれました。

それが、本当だと思うのです。

おとなはすぐに、「私は正しい」という顔をしたがるし、

「こうでなければならない」を押し付けるし、

「お前はおかしい」と、こどものほうを断罪する。

ついついそうなってしまいがちなのです。

だって、自分は間違っているかもしれないと考えることにも、状況に合わせてどうするのがいいか探すことにも、

自分のやり方に思いやりが足りなかったと認めることにも、ものすごい力が要ります。

でも、それをやりつづけなければ。

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こうすればいい、なんていう便利な方法はありません。

いつも、来るのは変化球です。

それに対して、どう動くのがいいのか、わからないなりに必死で手探りをすることでしか、人間同士の関わり合いはできない。

人と人との関係である以上、そこには絶対の正解はないのでしょう。

でも、「これをやったらおしまいね」ということなら、

厳然としてある。

それにはまらないようにと足掻きながら、

でもやってしまったりするのです。

本当は、やり直しはきかないものなのかもしれません。

どんなに悔いても、取り返しがつかないこともあります。

この日の先生のお話も、そんな事例から始まりました。

 

でも、人間同士ですから、

やり直せることだってあるのです。

失敗してしまったとき、

やり直すチャンスが与えられるというのは、

なんと素晴らしいことでしょう。

人が間違う存在であること、

そのことをお互いに認め合い、常に意識して、

間違ったときには許しあい、やり直す。

そこにこそ、人が人らしく生きられる余地、生命的な場があると思うのです。

 

後半、大空小学校の道徳の時間と同じやり方で、最新の道徳の教科書を使った話し合いの時間がありました。

そこに書かれていること(と指導のポイント)がすごい内容でびっくり仰天したのですが、

単にそれに反発したり、そんな教科書を作ることを糾弾したりするのではなく、

それを使ってより人間的な方向へ考えを深めることができるという、得難い経験でした。

 

すごい先生方がいらっしゃるのだなぁ、とも思いましたが、

ダメダメな自分でも、「それでいいんだよ」と背中を押されたような気もしました。

これからもやっていく力を、いただいたように思います。

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長くなってしまいました。もう一本の映画、

「人生 フルーツ」については、また次に。



           
 読んでいった、木村先生の著書の表紙です。他にも何冊も出ているようです。

    
    

「Tomorrow パーマネントライフを探して」を観て2017/01/13 18:32

先日、高尾の「いまここカフェ」で、

異色の民俗学者、宮本常一についての話を聴いてきました。講師の坂田さんは、昨年末にメキシコで開催された、生物多様性の国際会議から戻って来られたばかり。そのホットなお話も交えながらの講座でした。

 

たくさんのことをお話しいただきましたが、

中でも印象に残ったものの一つに、

「『世界を良くしなければ』と、はるか遠くを見ながら言う人が多いけれど、ごく身近な、自分の周囲を見ずに、

身近にあるものを打ち捨て、犠牲にして良くなる『世界』なんてない」

ということがありました。

 

Tomorrow パーマネントライフを探して」を観て感じたのも、まさにそのことでした。

2012年、「ネイチャー」誌に21人の科学者たちが発表した、「今のライフスタイルを続けていけば、遠くない将来に人類は滅亡する」という内容の論文をきっかけに、

滅亡へ向かわないために自分たちが何をできるのか、

それを探してさまざまな活動を取材したドキュメンタリーです。

取り上げられている「解決法」はどれも、自分たちの周りで、具体的に暮らしを改善するために動いている人たちの例でした。

大規模な農業、大企業中心の政治や経済といった社会の仕組みに巻き込まれないこと、

自分の周囲に、ローカルな、地域で生きていける環境を作り上げること。

 

さまざまな活動や情報がテンポよくどんどん紹介されるので、観ながらゆっくりじっくり考えるヒマはありません。

ある程度知っていることが多かったのでなんとかついていけましたが、全部が初めてのことだったら、途中でオーバーフローをおこしていたかも知れません。

いくつものセクションに分かれていたので、

例えば、セクションごとに詳しい人の解説付きでみるとか、みんなで話し合うとか、

そういう形での鑑賞会があればいいな、と思いました。

 

地域の人々と、自分たちには何ができるか、

話し合いながら観たい映画です。

映画の公式HPはこちらです。 

 http://www.cetera.co.jp/tomorrow/