在宅医療で ― 2010/02/07 14:30
節分が過ぎて立春がくると空気の匂いがはっきりと変わります。
それまでは、ときどき、あれっ?と思う程度に香っていた春の匂いが、しっかり定着するのです。
年の変わり目に、闇の中で空気がくっきりと変化するように、
節分でも、空気がかっきりと変わります。
なにごとにも過渡期というのはあると思うのですが、
もしかしたら、ものごとの変わり目自体は、けっこう決然と来るものなのかもしれません。
もう大丈夫かと思っていたのに、今年も、節分がきたらちょっと切なくなりました。
3年前、父がその日に倒れたからです。それから4月の末に亡くなるまでの約3ヶ月間、怒涛のような看護の日々を過ごしました。
実は、父はもう何年もガンを患っていて、治療を受けて一時良くなっては転移が見つかる、というのを繰り返していたのですが、その前の秋頃からまたマーカー値が上がってきていました。
かねてより両親は、最期は「病院で死ぬということ」の著者、山崎章郎先生にお世話になりたいと言っていました。調べてみると、ちょうど先生が在宅医療のセンターを開所されて一年ほどたったところで、エリアも、実家からは遠いのですが私の住んでいるところからは近かったので、先生にご相談して、お世話になる事にしました。
年明けからマンションを探し、やっといいところが見つかって、話が決まった数日後、父の具合が急変しました。
結局、最期は在宅で看取ることができたのですが、お世話になっていた病院に入院し、入院直後に肺炎を起こしたこともあって、父がこちらの新居に越して来るまでには、紆余曲折、さまざまなことがありました。かなり難しいところを敢えてという感じでしたから障害はあって当然でしたが、運命の女神が後押しをしてくれたとしか思えない、驚くような偶然がいくつもあり、やや遠距離でしたが、寝たきりのまま点滴をしながら医療用の車で退院・転居し、なんとか無事に在宅での看護が始まりました。
結果として、あのとき無理を通してでも転居したことは、本当によかったと思っています。
在宅での看護は、できることは何でも自分でやりたい私のような人間にはとても合っていました。難しいことは訪問看護師さんがやってくださいますし、簡単なことは、忙しい病院の看護師さんにやっていただくより自分でやったほうが素早く対応ができるし、お互いに言いたいことが言えるので、余分なストレスがなく本人の快適度も上がって、患者にとっても家族にとってもいいと思いました。
私にとっては、父が入院してからずっと私たちの存在を規定していた「患者の家族」という記号から開放されて、生身の自分自身に戻れたのが、なによりも一番大きかったかもしれません。
あのころを振り返ると、よくもまあ、あれだけの無理ができたものだと、今となっては呆れるほどです。
死が「負け」であるかどうかはまた別の問題ですが、
とりあえず、当面の気分としては負けがはっきりと見えている戦いのさなかにいるようなものですから、つらいことも多々ありましたし、その中で、納得の行く負け方を勝ち取ろうと、様々な局面で、一番いい道を探って流れを読み、時間と戦いながら一か八かの手を打っては祈る、という連続でしたので、本当にスリリングな日々でもありました。
そんなわけで、かなり切羽詰まった気分で過ごしていたのですが、同時に、渦中にいるときは何か不思議な幸福感に包まれている感じもあったのが不思議です。周り中の物や人々がやさしくしてくれました。草や花や木々、空や雲や小鳥たちがやさしいのはいつものことですが、人間も、家族はもちろんのこと、関わりあった、病院と在宅双方のお医者さまや看護師さん、ケアマネージャーさん、各役所の担当官をはじめ、買い物に立ち寄ったお店の人や、すれ違った見知らぬ人にいたるまで、どうしてこんなに、みんなで寄ってたかってやさしくしてくれるのだろうと、不思議に思ったくらいです。
思い出すと、いまでも不思議です。普段、自分が元気なときは、気付かずに通り過ぎてしまっているのでしょうか。自分では普通にしているつもりだったのですが、もしかしたら、「私はぎりぎりいっぱいです」と顔に書いてあったのかもしれません。
世の中は、人のやさしさで回っているのだなあ、というのが、当時、毎日のように実感していたことでした。
そのことを、これを書いているうちに思い出せて、本当によかったです。
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