「みんなの学校」を観て ― 2018/07/23 21:48
先月は、素敵なドキュメンタリー映画を2本観ました。
どちらも、前から観たいと思っていたもので、
しかも、自主上映で申し込みからかなりの日数があり、
待ちに待った!という気分での鑑賞です。
一本目の「みんなの学校」は、大阪の「大空小学校」という公立の学校を一年間取材した作品で、テレビのドキュメンタリー番組で放映されたものの映画版です。
公立の学校でここまでできるのか!
という、衝撃の内容でした。
映画について書かれた本もあり、あらかじめ読んでいたのですが、やはり実際にみると感覚が違いました。
しかもこの日は、映画を観たあと、この大空小学校の初代校長をしていらした木村泰子さんのお話も聴ける、スペシャル企画でした。
映画のHPはこちらです。
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次々と登場する、
どこかで会ったことのあるようなこどもたち。
そのこどもたちと関わるおとなたちが、
正解のない中で手探りをし続けている姿に打たれました。
それが、本当だと思うのです。
おとなはすぐに、「私は正しい」という顔をしたがるし、
「こうでなければならない」を押し付けるし、
「お前はおかしい」と、こどものほうを断罪する。
ついついそうなってしまいがちなのです。
だって、自分は間違っているかもしれないと考えることにも、状況に合わせてどうするのがいいか探すことにも、
自分のやり方に思いやりが足りなかったと認めることにも、ものすごい力が要ります。
でも、それをやりつづけなければ。
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こうすればいい、なんていう便利な方法はありません。
いつも、来るのは変化球です。
それに対して、どう動くのがいいのか、わからないなりに必死で手探りをすることでしか、人間同士の関わり合いはできない。
人と人との関係である以上、そこには絶対の正解はないのでしょう。
でも、「これをやったらおしまいね」ということなら、
厳然としてある。
それにはまらないようにと足掻きながら、
でもやってしまったりするのです。
本当は、やり直しはきかないものなのかもしれません。
どんなに悔いても、取り返しがつかないこともあります。
この日の先生のお話も、そんな事例から始まりました。
でも、人間同士ですから、
やり直せることだってあるのです。
失敗してしまったとき、
やり直すチャンスが与えられるというのは、
なんと素晴らしいことでしょう。
人が間違う存在であること、
そのことをお互いに認め合い、常に意識して、
間違ったときには許しあい、やり直す。
そこにこそ、人が人らしく生きられる余地、生命的な場があると思うのです。
後半、大空小学校の道徳の時間と同じやり方で、最新の道徳の教科書を使った話し合いの時間がありました。
そこに書かれていること(と指導のポイント)がすごい内容でびっくり仰天したのですが、
単にそれに反発したり、そんな教科書を作ることを糾弾したりするのではなく、
それを使ってより人間的な方向へ考えを深めることができるという、得難い経験でした。
すごい先生方がいらっしゃるのだなぁ、とも思いましたが、
ダメダメな自分でも、「それでいいんだよ」と背中を押されたような気もしました。
これからもやっていく力を、いただいたように思います。
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長くなってしまいました。もう一本の映画、
「人生 フルーツ」については、また次に。


「Tomorrow パーマネントライフを探して」を観て ― 2017/01/13 18:32
先日、高尾の「いまここカフェ」で、
異色の民俗学者、宮本常一についての話を聴いてきました。講師の坂田さんは、昨年末にメキシコで開催された、生物多様性の国際会議から戻って来られたばかり。そのホットなお話も交えながらの講座でした。
たくさんのことをお話しいただきましたが、
中でも印象に残ったものの一つに、
「『世界を良くしなければ』と、はるか遠くを見ながら言う人が多いけれど、ごく身近な、自分の周囲を見ずに、
身近にあるものを打ち捨て、犠牲にして良くなる『世界』なんてない」
ということがありました。
「Tomorrow パーマネントライフを探して」を観て感じたのも、まさにそのことでした。
2012年、「ネイチャー」誌に21人の科学者たちが発表した、「今のライフスタイルを続けていけば、遠くない将来に人類は滅亡する」という内容の論文をきっかけに、
滅亡へ向かわないために自分たちが何をできるのか、
それを探してさまざまな活動を取材したドキュメンタリーです。
取り上げられている「解決法」はどれも、自分たちの周りで、具体的に暮らしを改善するために動いている人たちの例でした。
大規模な農業、大企業中心の政治や経済といった社会の仕組みに巻き込まれないこと、
自分の周囲に、ローカルな、地域で生きていける環境を作り上げること。
さまざまな活動や情報がテンポよくどんどん紹介されるので、観ながらゆっくりじっくり考えるヒマはありません。
ある程度知っていることが多かったのでなんとかついていけましたが、全部が初めてのことだったら、途中でオーバーフローをおこしていたかも知れません。
いくつものセクションに分かれていたので、
例えば、セクションごとに詳しい人の解説付きでみるとか、みんなで話し合うとか、
そういう形での鑑賞会があればいいな、と思いました。
地域の人々と、自分たちには何ができるか、
話し合いながら観たい映画です。
映画の公式HPはこちらです。
http://www.cetera.co.jp/tomorrow/
ついに!「さとにきたらええやん」を観てきました ― 2016/11/26 16:16
昨日、やっと「さとにきたらええやん」を観てきました。
やっと、というのは、
もうずいぶん以前、FBで友人が「とても良かった!」とシェアしているのを読んで、ぜひ観たい!と思いながら、なかなか果たせずにいた映画だったからです。
(観ていないのに他人には何度か奨めていて、自分は、いち早く観てきた娘からパンフレットだけ見せてもらっていました)
八王子のアミダステーションで自主上映されると知って、
ついに昨日、思いを果たすことができました。
高尾や八王子の近くには、すごく面白いことをやっているスペースがいくつもあって、その一つが、
八王子駅北口のお寺にある「アミダステーション」です。
とてもいい映画を見せてくれる企画がちょくちょくあって、以前、ペルーの素敵な料理人、ガストンさんのドキュメンタリーもここで見ました。
前置きが長くなりすぎました。いまは、「さと・・・」の話に戻ります。
この映画は、大阪市西成区、通称「釜ヶ崎」にある
NPO法人「こどもの里」のドキュメンタリーです。
出来事はたいてい、大勢のこどもたちの声が響いている場所で起こっているので、
会話が聴き取りにくいことも時々あります。
ナチュラルスピードの関西弁ですから、慣れていない方はなおさらでしょう。
でも、というか、それだからこそ、の臨場感があります。
リアル。
カメラを意識している姿も含めて、かなりリアルです。
「さと」があるのは、社会の歪み―お金持ちに有利なシステム、人を人とも思わないシステム―の、しわ寄せが最も強く表れる地区。
だからこそ残っている…のであろう、人間臭さです。
人のどうしようもなさと、あたたかさ、
弱さと、それを補って余りある強さ。
言葉の荒い人、不器用すぎる人はたくさんいますが、
言葉だけがきれいで心の冷たい人は、
この映画には出てきません。
とても切ないけれど、
「こどもの里」には、その切なさに、
どこまでも寄り添ってくれる温かさがあります。
この世界にいつまでも浸っていたくて、
タイトルバックが流れ始めたとき、ああ終わってしまう…と、とても悲しかった。
誰かわからない誰かに、そばにいるみんなに、
お礼を言いたいような気持ちで観ていました。
人間であることがしみじみ嬉しくなるような映画です。
もしどこかで自主上映があったら、
ぜひ足を運んでみて下さい。

心をやわらかく包んでくれる、とてもいい声です。

シーモアさんという音楽 ― 2016/10/10 18:15
「シーモアさんと、大人のための人生入門」
http://www.uplink.co.jp/seymour/
という映画を観てきました。
素晴らしい演奏家でありながら、50歳のときに(絶賛されていながら)演奏活動をやめ、以後ずっと(映画の時点で37年、そして今も)教師に徹しているピアニスト、
シーモア・バーンスタインさんのドキュメンタリーです。
まず、彼の演奏が、すごい。
心の襞の奥深くに隠れているものたちが、やさしく引き出されて愛撫してもらえるような、
あるべきものが、あるべきように存在させてもらっているような。
そして、彼の語る声と言葉が、非常に心地よくしみ入ってきます。
彼の教え子たちはもともとかなりレベルの高い人々なのですが、
アドバイスを受けて、演奏が見事に変わるのも壮観です。
もう一つ、なぜか強く感じたのは、人々の声の印象でした。
シーモアさんは、ある意味で恐ろしい人です。
ゆるぎなくどっしりといる彼の前にでると、
人はみな、自分の周りにまとっているものをあぶりだされてしまうようなのでした。
彼と何を語りあったか、ということよりも、
どんな声で語ったか、ということによって、
よりはっきりと。
サティシュ・クマールさんのドキュメンタリーを観たとき、印象的だったものの一つに、
大切なのは、何を「する」か(Doing)ではなくて
どう「ある」か(Being)だ
という言葉がありました。
頭ではわかっているつもりだったそのことを、
はっきりと 見せてもらった気がしました。
シーモアさんは、「自分の存在を、自分の音楽と一致させたいのだ」と言っています。
だから彼は、演奏が思うようにいかなかったときは4時間だった練習時間を8時間にしたそうです。
でも、練習にあまり時間を取られると自分自身の創作に割く時間がなくなってしまうので、演奏活動をやめたのだそうです。そして、創作をすることで、他の作曲家の作品を演奏することも以前より良くできるようになった、と語っていました。
そんなシーモアさんを見ていると、
何かを精一杯、全身全霊で「する」ことでしか「ある」ことのできない自分
というものがあるのだな、と思えてきました。
自分自身であるために、
シーモアさんにとっては、一人きりの、静かな暮らしが必要だったし、
演奏活動を通してではない形で音楽とかかわることが必要だった、
ということのようでした。
音楽のオイリュトミーをするとき
その音楽をどこまでも聴きとろうとするのですが、
その時に大切なのが、「無音」です。
音の中にある無音が聴けないと、本当にはその音楽が聞こえてきません。
彼の声がとても心地よく、深く心に入ってくるのは、
言葉が、とてもゆっくりと丁寧に語られるということもあると思いますが、
ひょっとしたら、
音楽の中にある、その「静けさ」が、
彼の声や、彼のあり方の中にまで浸透しているせいかもしれません。
彼はやはり、音楽になってしまった人なのです。
そして彼は、
曲の中の一つ一つの音符を奏でるときと同じように、
他人を受け止め、響かせます。
真摯に、誠実に。
生徒たちの演奏が劇的に変わるのも、
このドキュメンタリーを録った俳優のイーサン・ホークが救いを感じたのも、
きっとそのためだったのでしょう。
すごい人と出会ってしまいました。
*タイトルについて
原題は”Seymour: An Introduction”です。おそらく、サリンジャーの「Raise High the Roof Beam, Carpenters, and Seymour: An Introduction Stories大工よ、屋根の梁を高く上げよ―シーモア・序章」から取ったのでしょう。私も映画を観る前はそうでしたが、確かに、シーモアと聞けばシーモア・グラスを連想するファンは多いでしょう。それだけに、わざわざそんなタイトルにしなくてもと思いました。二人はあまりにも違います。ただ、「細やかな感受性を持ち、誠実、叡智があって、一つのことを深く追及している愛らしい変わり者」というふうに特徴を言葉にしてみると、共通だという考えも成り立つかもしれないのですが。
それを別にして言葉の意味そのものだけを考えると、このAn Introductionは、いろんな意味を含んでいて、なかなかいい感じもします。そのニュアンスを日本語にするのは難しかったのでしょうか、日本語タイトルは、かなり残念な感じです)

おみおくりの作法 ― 2015/04/04 23:48
実は、かなり前に観た映画です。
とても印象的でしたので感想を書きたかったのですが、
いろいろなことがあり、ブログを書いている余裕がありませんでした。
もうとっくに終わってしまっているだろうと思っていたら、まだまだやっているどころか、公開9週目にして
ミニシアターランキング1位に輝いたとか。
今日から新宿でも観られるようになったというので、
今更ながらひとこと書くことにしました。
原題は「STILL LIFE」
まさに、そうなのです。映画そのものの佇まいが。
新聞広告に
「たった1館の公開から、クチコミで感動が拡大中!」
とありました。
広まり方まで、この映画らしくて素敵です。
この「ジョン・メイ」氏に会えたおかげで、
なんだか、
生きるということの本当の意味が、
確認できたような気がしています。
たとえ誰からも評価されなくとも
人生の価値に欠けるところはないのだ、ということ。
丁寧に扱う、きちんと対する
そのことの、深い意味。
「愛する」ということのエッセンス。
最後のほうで息を飲みましたが、それ以外には
派手なシーンのひとつもない、本当に端正な映画です。
心の奥にそっと、けれどしっかりと入り込んで、
じっくりと温めてくれるような。
シネスイッチ銀座では17日まで、
新宿シネマカリテでは今日から公開だそうです。
全国各地で、ぽつりぽつりと公開中または公開予定のようです。


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